ログインプロポーズの夜から、数日が過ぎた。 七年前、あなたの未来から、私は一度消えた。 それでも今、私はあなたの隣を歩いている。 並んで歩く。何も言わなくても、距離は自然に近くなっていた。ふと、文具店の前で晴紀が足を止める。 ショーウィンドウに並ぶ、革の手帳。彼の視線が、一冊の水色の手帳で止まった。ほんの一瞬だけ。「入ろうか」 晴紀の言葉に、私は頷いた。 店内は静かだった。棚には、上質な革の手帳がずらりと並んでいる。黒、茶色、紺、深緑。 落ち着いた色の中で、私の視線はある一冊に吸い寄せられた。「……これ」 指先で触れたのは、透き通るような、けれど深みのある水色の手帳だった。七年前、私が彼に贈ったあのメモ帳と、同じ色。「また水色にするのか?」 隣で晴紀が、少し意外そうに私を見る。けれど、その目はどこか愛おしそうだった。 私は頷いて、その手帳を彼に手渡した。「晴紀の色だから」 彼の指が、手帳を受け取る。「今は『晴れ』を、誰かのために使える人だと思うから」 私の言葉に、彼は一瞬だけ目を見開いた。 かつての彼は、その名前の重さに縛られ、一人で嵐の中に立っていた。でも今は違う。 晴紀は水色の手帳を、愛おしそうに指先で撫でた。それから棚の奥へ手を伸ばし、今度は鮮やかな、けれど落ち着きのある赤い手帳を取り出す。「じゃあ、朱音はこれだ」「えっ、赤?」「ああ。朱音だし」 晴紀は少しだけ笑った。「それに、俺の心を溶かしてくれたのは、君のその熱さだったから」 まっすぐな目で、見つめられる。「これからは俺の隣で、ずっと赤く輝いていてほしい」 ストレートすぎる言葉に、顔が熱くなる。「……そういうこと、普通に言うようになったね」「君には、言い惜しみしたくない」 また、そんなことを言う。 七年前は、言葉が足りなかった。お互いに足りなくて、すれ違って、取り返しのつかないところまで離れてしまった。 だから今の晴紀は、少し不器用なくらい、ちゃんと言葉にしようとしてくれる。そのことが、嬉しかった。 レジで並んだ二冊の手帳。水色と、赤。 それはまるで、これから二人が紡いでいく新しい空の色と、そこに昇る太陽のようだった。「……大事にするね、晴紀」「俺も」 会計を終えて、店員から袋を受け取る。晴紀は水色の手帳を一度取り出し、表紙を確かめるよ
「……本当は、もっと綺麗な言葉を考えてた」 晴紀が、静かな動きで、テーブルの上に小さな箱を置く。 胸が、大きく跳ねる。 「でも、君の前だと、たぶん無理だな」 箱が開く。 やわらかな灯りの下で、石がひとつ、静かに光を返した。 「朱音」 名前を呼ばれる。 その声に、七年前の夜も、病室の白い天井も、社長室の別れも、全部が重なって、それでも今だけは、ちゃんとひとつの場所にたどり着いた気がした。 「嬉しい時だけじゃなくて、しんどい時も。 喧嘩する日も、仕事で潰れそうな日も。 みっともない俺も、強すぎる君も、全部ひっくるめて」 一度だけ、息を吸う。 「これから先を、一緒に生きてほしい」 もう、涙がこぼれていた。 「結婚してほしい」 指先が震える。 言葉にしたいのに、胸の奥の方が先にいっぱいになってしまう。 晴紀は続ける。 たぶん、これを最後まで言うために、ここへ来たのだと分かる声で。 「答えを急がせたいわけじゃない。けど、もう君のいない未来を、正しいって言い聞かせるのは終わりにしたい」 低く、静かな声だった。 「朝、同じ家で目を覚まして、くだらないことで笑って、忙しい日は一緒に疲れて……そういう、当たり前の毎日を、君と生きたい」 その言葉が、胸のいちばん柔らかいところに落ちる。 「……一緒に家に帰ろうか」 その瞬間、私はほんとうに駄目になった。 七年前、ここで失ったはずのものが、まったく違う形で胸に戻ってくる。 待たされた夜。 選ばれなかった夜。 独りで帰った夜。 その全部に、今、答えが置かれた気がした。 「……そんなの」 涙で滲んだ視界の向こうで、彼がじっと私を見ている。 「そんなの……断れるわけ、ないでしょ……」 笑いながら泣くみたいな声になった。 自分でも情けないと思うのに、晴紀はそんな私を見て、泣きそうな顔で笑った。 「……うん」 「うん、って……何それ」 「よかった、って意味」 私は泣きながら、でもちゃんと頷いた。 「……帰ろう」 その一言で、晴紀の表情が崩れた。 救われたみたいに、安堵したみたいに。 七年前の私は、この場所から独りで帰った。 期待したぶんだけ傷ついて、何も持てないまま、俯いて。 でも今は違う。
ホテル・クラウンセレスティアのガラス壁が、夜の街の光を静かに映していた。 足を止めたのは、一瞬だった。 たった一瞬なのに、胸の奥では七年前のあの夜が、今も鮮やかに息をしている。 深紅のワンピース。 冷えていく指先。 届かなかったメッセージ。 開かない未来。 自動扉の向こうを見つめたまま、私は小さく息を吸った。 「……やっぱり、緊張する?」 隣から落ちた声に、顔を上げる。 晴紀だった。 今日は先に店で待っているのではなく、ロビーの入口に立っていた。 黒のスーツ姿。けれど以前みたいな作られた余裕はなくて、私を見る目だけが、まっすぐだった。 「……少しだけ」 そう答えると、晴紀は一歩近づいてくる。 「うん」 それだけ言って、私の手を取った。 強く引かない。 逃がさないように、でも、怖がらせないように。 そんな触れ方だった。 「今日は、最初から迎えたかった」 胸が、静かに揺れる。 「……待たせたくなかったから」 その一言だけで、喉の奥が熱くなった。 私は何も言えず、小さく頷く。 彼と並んで中へ入る。 ロビーの空気は変わらず静かで、磨かれた床も、低い照明も、記憶の中の夜と同じはずなのに──今日は、私を置き去りにする場所には見えなかった。 レストランの前で、スタッフがすぐに頭を下げる。 「清水様、お待ちしておりました」 その言葉に、胸の奥の何かが、ひとつほどけた。 今回は、ちゃんとそこに予約があった。 ちゃんと、私たちの席がある。 晴紀が私を見る。 「行こうか」 「……うん」 案内されたのは、七年前と同じ窓際の席だった。 同じ場所。 同じ高さの灯り。 同じ夜景。 でも、向かいの席に座る彼は、もう七年前の彼じゃなかった。 水が注がれ、最初の皿が置かれる。 けれど私は、料理よりもずっと、彼の指先ばかり見ていた。 ナイフを持つ手。 グラスに触れる手。 その手が、あの夜、何も拾えなかった私の心に、いまはこんなにも慎重に触れようとしている。 「……朱音」 低い声で呼ばれて、視線を上げる。 晴紀は、少しだけ息をついてから言った。 「最初に謝らせてほしい」 私は黙って、続きを待つ。 「あの日、ここで君を待たせたこと
外に出ても、晴紀は私の手を離さなかった。 何も言わないまま、その手の温度だけを確かめるように、私たちは夜の街を進んだ。 そして辿り着いた彼のマンションで―― 扉が閉まった瞬間、背後の壁に押し付けられた。 カチリ、と鍵が閉まる音が、合図になる。 明かりをつける間もなかった。 暗がりの中で、晴紀の唇が、飢えた獣のように私の言葉を奪った。 「……朱音、……朱音」 何度も、何度も私の名前を呼ぶ。 その声は掠れていて、これまでの七年間、彼がどれほどの想いを喉の奥に押し込めてきたのかが伝わってきた。 胸が締めつけられた。 冷たい扉の感触と、彼の手のひらの熱。 ブラウスのボタンを外す彼の手は、驚くほど震えていた。 「怖かった……。君を失うことが、こんなに恐ろしいなんて」 露わになった私の肩に、彼が顔を埋める。 熱い吐息が肌をなぞり、首筋に吸い付くような感触が走る。 「っ、……はるき」 彼のシャツを、爪が食い込むほど強く握りしめた。 リビングのソファに倒れ込み、重なる体温。 晴紀の指先が、私の肌をひとつひとつ確かめるように愛撫し、奥へと滑り込んでいく。 「……信じられない。本当に、君がここにいるなんて」 月明かりに照らされた彼の瞳には、これ以上ないほどの愛おしさと、剥き出しの欲情が渦巻いていた。 彼が自らもすべてを脱ぎ捨て、私の脚の間に身を沈める。 密着した肌から伝わるのは、壊れた時計のような、激しくて不規則な鼓動。 ゆっくりと、けれど逃げ場のない強さで、彼が私の中に踏み込んできた。 「あ……っ、……ふ、……っ!」 喉の奥から、自分でも驚くような声が漏れる。 満たされる感覚は、これまで知っていたどんな快楽よりも濃密で、逃げ場のない熱が渦を巻いて押し寄せる。 晴紀が私の指を絡め取り、手のひらをぴったりと重ね合わせた。 「離さない。……もう二度と、一人で待たせないから」 突き上げられる衝撃のたびに、意識が白く弾ける。 彼の背中に爪を立て、私はただ、その熱の中に溶けていった。 七年間の苦しみも、あの病室の白い天井も、全部、今この瞬間の熱さで上書きされていく。 汗ばんだ肌が絡み合い、限界を超えたとき、私たちは同時に、深い歓喜の混ざり合った絶頂へと突き落とされた。
「……捨てられないんだ。どうしても」 低く、噛みしめるように。 「一緒にいたら、また傷つけるかもしれない」 晴紀の目に、涙の光がある。 「Dがいることも、分かってる」 声が震える。 「……それでも。 正しいほうを選んで、逃げるのは、もう嫌だ」 彼の手が、私の肩に触れる。 強くはない。 でも、離れられない。 「朱音」 名前を呼ぶ。 「一緒に、いさせてほしい」 次の瞬間、彼は私を抱きしめた。 勢いじゃない。 確信でもない。 耐えきれなくなったみたいな。 不器用で、震える腕だった。 不器用で。 遅すぎて。 最低なくらい、正直な人。 視界が、一気に滲む。 隣で、Dが小さく首を振った。 やれやれ、という仕草。 怒りでも、失望でもない。 でも、私の指先は、無意識に、強く、晴紀の背中を掴んでいた。 あの日と、同じように。 晴紀の腕の中で、私はしばらく息をすることさえ忘れていた。 胸に押し当てられた彼の鼓動が、壊れたみたいに速い。 「……どうして」 声が、自分のものじゃないみたいに震えた。 彼のスーツを掴んだまま、顔を埋める。 「どうして……来なかったの」 言った瞬間、涙が溢れた。 止め方を、もう忘れていた。 「待ってた……」 喉の奥が詰まる。 彼の胸に顔を埋めたまま、私は声を絞り出した。 「……七年前も。 今も……ずっと……待ってたのに……」 言葉が、途中で崩れる。 もう、止められなかった。 「だから私……」 視界の奥に、重なる光景。 レストランで。 向かいの席に座りながら、ドアの方ばかり見ていた夜。 病室で。 白い天井の下、開かない扉を、何度も見つめていた時間。 スマホの画面。 返ってこなかった言葉。 呼び出し音。 途中で途切れた、あの静寂。 ずっと。 ずっと。 心のどこかで待ち続けていた。 全部が、一気に押し寄せる。 「来ないなら……来ないって……言ってほしかった……」 声が崩れる。 「期待させないでよ……」 指先に力が入る。 逃げられないように。 今度こそ、いなくならないように。 「もう……終わったって……思おうとしたのに……」 それなのに。
社長室の扉は、半分ほど開いたままだった。 晴紀は、デスクの前の椅子に腰掛けている。 背もたれに体重を預け、視線だけが落ちていた。指先は微かに震え、膝の上で組んだ拳に力がこもっている。 その手には、淡い水色のメモ帳。 「……兄さん」 悠斗は、しばらく声をかけなかった。 返事がないのを確認してから、ようやく口を開く。 「朱音さんが、挨拶に来てたけど」 それだけ言って、言葉を切る。静まり返った室内には、壁の時計が刻む音だけがやけに大きく響いていた。 「……大丈夫か?」 しばらくして、晴紀が口を開いた。 「……大丈夫な顔、してたか?」 声が、思ったより低い。 悠斗は答えない。 晴紀は、メモ帳を見下ろしたまま続ける。 「俺さ……ちゃんと、手放したつもりだった」 悠斗の視線が、わずかに動く。 「未練も」 「期待も」 「全部、整理したって思ってた」 指先が、革の端をなぞる。その使い込まれた表紙には、彼が何度も読み返した痕跡が深く刻まれている。 「……でも」 言葉が、そこで止まる。 「言われたんだ。 これを捨ててもいい、って」 ようやく、顔を上げる。 「それを聞いた瞬間。 ……ああ、まだ何も終わってなかったって分かった」 悠斗は、息を吐いた。 「今の顔。 あの時と、同じだな。 いずみさんと結婚したとき。 全部決めたあとで、動けなくなってた顔」 晴紀は、否定しなかった。 「……あの時も」 「正しいと思った。 間違えない選択だって」 「でも。納得は、してなかった」 目を伏せる晴紀を見て、悠斗は、淡々と続ける。 「それで後悔しなかったのか?」 晴紀は、少しだけ笑った。自嘲気味な、歪な笑みだった。 「……するに決まってるだろ」 「後悔しないために。 正しいって言い続けてただけだ」 沈黙が落ちる。 悠斗は、メモ帳に視線を落とした。 「そんなふうに逃げ続けて、メモ帳を持ち続けるのと捨てるのと、何が違うんだ? 朱音さんはDさんと海外へ行くそうだぞ」 晴紀は、ゆっくりと立ち上がる。 「……違う」 小さく、でもはっきり。 「逃げたいなら。 あれは、持ってない」 メモ帳を、胸の前で握る。 「捨てられないってことは」 「そうだな
清晴堂の社長室の扉が閉まる。 音が、すっと遠のいた。 外では人が動いている。 足音も、話し声も、確かにある。 それなのに、ここだけが切り離されたみたいに静かだった。 デスクの向こうに、晴紀が立っている。 スーツに皺ひとつない姿。 その距離が、今日に限って、ひどく遠い。「朱音……」 一週間、死ぬほど聞きたかった声。 触れたかった温度が、すぐそこにある。 見つめ合うだけで、 あの日、機内で重ねた指の感触が蘇る。 「隣にいてくれて、ありがとう」と言われたときの、 彼の熱い体温も。 拒絶された絶望よりも、 会えなかった時間の空白が痛かった。 今はただ、それだけが胸
翌日だった。 社長室に戻ると、秘書が一言だけ告げた。「……神園いずみ様と、ルカ=ベルナール様がお見えです」 逃げる理由は、もうなかった。 応接スペースに入ると、二人はすでに並んで座っていた。 いずみは、以前よりもずっと落ち着いた表情をしている。 ルカは、いつも通り、少しだけ距離を取る位置だった。「……よく来てくれたな」 先に口を開いたのは、晴紀だった。「悠斗の件で助けてもらった。 ありがとう」 いずみは、首を横に振る。「こちらこそ。 神園家のことで、ご迷惑をかけました」 事務的なやり取り。 でも、どちらもそれ以上踏み込まない。 晴紀は、ふと視線をルカに向けた
オフィスは、異様なほど静かだった。 朝なのに、雑談がない。 響くのはキーボードとコピー機の音だけ。 受付で来客用カードを受け取り、エレベーターに乗る。 自分のIDは、もう使えない。 ——ああ、終わるんだ。 胸が騒ぐかと思った。 でも、何も起きなかった。 感情だけが、遅れている。 フロアに降りると、視線が一瞬集まり、すぐ逸れる。 気まずさじゃない。 配慮だ。 ——撃たれた人。 誰も言わない。 でも、その前提だけが空気に残っている。 「……体調は?」 通りすがりの声。 「大丈夫」 笑顔で、でも足は止めない。 デスクは、すで
深夜二時。 悠斗は、自宅のデスクで、再び端末を開いていた。 眠るつもりだった。 だが、あの着信が頭から離れない。 知らない番号。 短すぎるコール。 番号検索にかけても、情報は出てこない。 プリペイドか、転送。(……本気だな) 監査資料の件。 経理修正。 警備員の言葉。 全部が、展示会の「後」を見据えた動きだ。 ——負けた場合じゃない。 勝った場合の処理。 悠斗は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。(……時間がない) 守るための準備は、もう間に合わない。 必要なのは——「……公開、か」 独り言が、静かな部屋に落ちる。 内部で潰されるなら、 外に出すし